真桑文楽と真桑小での取組を紹介します。
約400年前の江戸時代初期(えどじだいしょき)に人形芝居(にんぎょうしばい)と三味線音楽(しゃみせんおんがく)が結(むす)びついて生まれた人形浄瑠璃芝居(にんぎょうじょうるりしばい)のことです。「文楽」は,それが公演(こうえん)されていた大阪(おおさか)の「文楽座(ぶんらくざ)」という劇場名(げきじょうめい)に由来(ゆらい)しています。
文楽の演技(えんぎ)は浄瑠璃語り(じょうるりかたり),三味線弾き(しゃみせんひき),人形遣い(にんぎょうつかい)の三者で成り立っています。
| 浄瑠璃語り | 物語のナレーションや登場人物のせりふやしぐさを語ります。 浄瑠璃を語る人を太夫(たゆう)ともいいます。 |
| 三味線弾き | 舞台(ぶたい)の進行役で太夫と人形にきっかけを与えます。 人形の速度や手順を示し,登場人物の感情やその場の情景を太夫と共同で表現し,太夫の語りを導くという役割を受け持っています。 |
| 人形遣い | 人形は三人の人形遣いによって操(あやつ)ります。 主遣い(おもづかい)は,人形の首(かしら)と右手を操ります。舞台げたをはきます。 左遣い(ひだりづかい)は人形の左手を操ります。 足遣い(あしづかい)は人形の両足を操ります。 |
この浄瑠璃語り・三味線弾き・人形遣いの三業(さんぎょう)の調和(ちょうわ)によって,人形が生きているように振舞(ふるま)う三位一体(さんみいったい)の舞台芸術(ぶたいげいじゅつ)です。
真桑文楽は,真桑小校区の本郷地区(ほんごうちく)に300年以上続いている伝統的(でんとうてき)な人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)です。
毎年,春分(しゅんぶん)の日に物部神社(もののべじんじゃ)の祭礼(さいれい)に奉納上演(ほうのうじょうえん)されています。
真桑用水に関(かか)わる用水の争(あらそ)いを解決(かいけつ)するために,私財(しざい)を投(とう)じて尽力(じんりょく)し,「井水の制(いすいのせい)」を確立(かくりつ)して解決した福田源七郎(ふくたげんしちろう)の徳(とく)と業績(ぎょうせき)を讃(たた)えて,上演(じょうえん)されたのが始まりであると伝えられています。
現在(げんざい)も,外題(げだい)「義農源七郎(ぎのうげんしちろう)」として上演(じょうえん)されています。
しかし,所蔵(しょぞう)されている頭(かしら)には,大阪文楽が成立するより前のものがあり,その発祥(はっしょう)はかなり古いと考えられています。
約900年前,この地域(ちいき)に,「傀儡子(くぐつし)」の集団(しゅうだん)が住(す)んでいたようです【「傀儡子記」大江匡房(1041-1111)著,「日本の人形芝居」永田衡吉著1969】。
傀儡子とは,胸の前につった箱などの上で小さな人形を操る旅芸人で,人形芝居の起源と考えられています。
一方,浄瑠璃の始まりは,美濃(みの)の国[本巣郡北方町]生まれの小野於通(おののおつう)が作った「浄瑠璃姫物語」(じょうるりひめものがたり)(約400年前)だという俗説(ぞくせつ)があります。
創始者(そうししゃ)かどうかは定かではありませんが,浄瑠璃姫物語の彼女の語りと三味線で,大阪城(おおさかじょう)の淀君(よどぎみ)や千姫(せんひめ)を楽しませたのは確かなようです。「浄瑠璃」という言葉の由来もここにあります。
また,小野於通が「浄瑠璃姫物語」を傀儡子に節をつけ語るよう教えたという記録もあります【「東海道名所記」浅井了意(1612-1691)編】。
真桑と北方は目と鼻(はな)の先です。
彼女が子どもの頃,本郷の傀儡子を見聞きしてそれが彼女の作品に影響(えいきょう)を与えたかも知れません。
逆に,彼女が帰郷(ききょう)した時,真桑の人たちに影響を与えたのかもしれません。このことは推測の域を出ません。
約200年前,大阪文楽の初代桐竹門蔵(きりたけもんぞう)が病気療養(りょうよう)のため訪(おとづ)れ,それまで1人遣いであった真桑文楽に3人遣いの文楽を伝授(でんじゅ)したと伝えられています。
所蔵している頭(かしら)に,彼らの銘(めい:名前)が書かれたものもあります。
昭和59年,真桑文楽は人形芝居の歴史(れきし)を知る上で貴重(きちょう)であり,文化的(ぶんかてき)価値(かち)も高く地方的特色があるとして,国の重要無形民俗文化財(じゅうようむけいぶんかざい)に指定(してい)されました。
この地域(ちいき)は,大昔(おおむかし)から農業用水(のうぎょうようすい)の利権(りけん)を争(あらそ)ってきました。
1664年上真桑村の井頭(いがしら:庄屋であり用水を管理する人)であった福田源七郎は,どんなに苦労(くろう)しても,死ぬ覚悟(かくご)で真桑用水内の水配分(はいぶん)争いを解決しようと決心しました。
自分の田畑や家を売って,家のことは妻にたのんで,18回にわたって江戸(えど:今の東京)の評定所(ひょうじょうしょ:今の裁判所(さいばんしょ))まで出向き,解決してもらえるよう訴(うった)え続けました。
源七郎は朝早くから夜遅(おそ)くまで働(はたら)きました。水を引き入れやすいように,田や用水路を作っていきました。そして「井水の制(田に水を引くきまり)」を作って,水争いを解決したのです。
村人は源七郎に感謝(かんしゃ)し,最後(さいご)に江戸から帰ってきた日を記念日として,「義農源七郎」という外題の真桑文楽を奉納上演するようになったのです。
外題『真桑誉義農源七郎』は「水争いの段」と「初真桑の段」の2段で構成されています。
毎年,となり村との水争いに心を痛(いた)めた源七郎は,村人や女房(にょうぼう)が引き留(と)めるのを説得し,江戸の評定所に旅立ちます。
女房は願いがかなうことを祈(いの)り,髪(かみ)にさした櫛(くし)を路銀(ろぎん:旅費)の足しにと渡(わた)し,源七郎を見送ります。
しかし,その後の連絡(れんらく)が途絶(とだ)え,幼な子(おさなご)の病気(びょうき)もひどくなる状況の中,ついに母子二人は自らの命を絶(た)とうとします。
その時,突如(とつじょ)として獅子頭(ししがしら)をつけた源七郎が現れます。願いがかなったことを報告し,幼な子に真桑瓜を与え元気を取り戻します。
旅だちのときにもらった櫛(くし)を女房の髪(かみ)に返し,路銀に換(か)えなかった訳を話すと,女房は喜びにむせび泣き,幕は閉じられます。
このように,文楽「義農源七郎」では,妻子や村人への愛情を浮き彫りにして,源七郎の徳と業績が語り続けられています。
毎年,私たち6年生は,総合的な学習の一環として地域の歴史・文化・産業等を調べる一方で,地域の人々や,今まで上演してきた先輩たちの思いを引き継ぎたいという願いから,真桑文楽にも体験的に取り組んでいます。
上演するのは,「傾城阿波の鳴門・順礼歌の段」です。浄瑠璃,三味線,人形,裏方の4グループに分かれ,それぞれ地域の方々に直接教えてもらいながら練習しています。
浄瑠璃 お弓役とお鶴役に分かれ,声の出し方を工夫します。 |
三味線
学校で練習するだけではなく,夜も練習に行きました。 |
人形
3人の息を合わせて細かい仕草も練習します。 |
裏方
小道具・大道具・字幕・広報活動を頑張ります。 |
板東十郎兵衛(ばんどうじゅうろべえ)は実在の人物です。
約300年前,徳島藩(とくしまはん)では,米の輸入管理役(ゆにゅうかんりやく)であった十郎兵衛と部下である船頭(せんどう)との間でトラブルが起こりました。
1俵(ぴょう)の量(りょう)の違(ちが)いを利用して不正にもうけようとする船頭と,それを見つけ認めない十郎兵衛との事件が,米の輸出入を認めない幕府(ばくふ)の耳に入り,十郎兵衛一人の責任として息子3人とともに処刑されてしまいました。
妻「お弓」と娘「お鶴(つる)」も追放の後に病死しました。
その70年後,この実話をもとに,近松判二(ちかまつはんじ)らによって「傾城阿波の鳴門」が作られたのです。
全10段で作られていますが,その8段目「順礼歌の段」と9段目「十郎兵衛住家の段」が特に好まれ,各地で公演されています。
昔,玉木家に代々伝わる宝の名刀「国次」が盗(ぬす)まれました。
玉木家に仕える「阿波の十朗兵衛」は,殿様(とのさま)の命令を受け,3才になる娘「お鶴」をおばあさんにあずけ,妻「お弓」と共に名刀を探す旅に出ました。
各地を探すものの,刀はいっこうに見つからないまま国を出て5年,2人は潜入捜査(せんにゅうそうさ)のため盗賊(とうぞく)に身をかえて大阪(おおさか)に住んでいました。
お弓が家にいると盗賊仲間からの手紙がとどきました。盗賊への取りしまりがきびしくなったため,すぐそこを出てかくれるようとの指示でした。
そんな時、可愛い順礼の女の子が戸口に立っていました。国を尋(たず)ねると阿波の徳島であり,父や母に会うために順礼をしているという。
父母の名からその子がわが娘であると気づき,すぐにも名乗ろうとしたものの,仲間からの手紙を読み直し,今の状況では子供にまで盗賊としての罪(つみ)がかかると考え,名乗ることができないでいました。
母親のことを恋しく思い,「会いたい,会いたい」と泣くわが子の姿に耐えられなくなり,思わずお弓はお鶴を抱きしめます。
それでも心を鬼(おに)にして,娘に小銭(こぜに)を持たせて追い返しました。
しかし,二度と会えないかもしれないと,思い直したお弓はお鶴の後を追いかけていきました。
一方,十郎兵衛はお鶴が悪者(わるもの)たちにおそわれているところを救い,お弓と入れ違いになって,2人で家に戻ってきました。
おそわれた理由から,娘が小判(こばん)を持っていると知り,その金を借りようとします。
大声を上げて逃げようとする娘の口に手を当て,まちがって娘を殺害(さつがい)してしまいます。
そこへお弓が戻ってきて事情を知り,夫婦はおどろきと悲しみの涙を流します。
その時,外には2人を捕らえようとする役人たちが迫って来ていました。
娘を人手に渡すまいと家といっしょに火を付けてとむらうのでした。
その後,お鶴が持っていた手紙から,名刀「国次」を盗んだ犯人が分かり,事件は解決し,十郎兵衛たちは徳島に帰ることができました。
真桑小で取り組んでいるのは「順礼歌の段」で,順礼お鶴が訪ね来るところから,お弓が娘を抱きしめるところまでです。
それ以上を体験するには,高価な人形も必要になりますし,講師の先生や私たちが練習する時間も必要になってくるからです。
太夫(たゆう)が浄瑠璃を語るための本を「床本(ゆかほん)」とか「浄瑠璃本」といいます。それにそって,真桑小で上演している部分を紹介します。
ふるさとを、はるばるここに、紀三井寺(きみいでら)…。
「順礼(じゅんれい)に、ご報謝(ほうしゃ)。」
と言(い)うもやさしき国(くに)なまり。
「ても、しおらしい順礼衆(じゅんれいしゅう)。どれどれ報謝(ほうしゃ)進(しん)じょう。」と、盆(ぼん)に精(しら)げの志(こころざし)。
「あいあい、ありがとうござります。」
と言う物(もの)ごしから端外れ(つまはずれ)。
「まあ、可愛(かわい)らしい娘(むすめ)の子。定(さだ)めて連(つ)れしは親御達(おやごたち)、国はいづく。」
と、尋(たず)ねられ。
「あい、国は阿波(あわ)の徳島(とくしま)でござります。」
「む、何(なん)じゃ徳島。さってもそれは まあなつかしい。わしが生まれも阿波の徳島。そして、父様(ととさん)や母様(かかさん)と一緒(いっしょ)に順礼(じゅんれい)さんすのか。」
「いえいえ、その父様(ととさん)や母様(かかさん)に会(あ)いたさ故(ゆえ)、それでわし一人、西国(さいこく)するのでござります。」
と、聞(き)いてどうやら気にかかる。
お弓(ゆみ)はなおも側(そば)に寄(よ)り、
「むむ、父様(ととさん)や母様(かかさん)に会いたさに、西国(さいこく)するとは、ま、どうした訳(わけ)じゃ。それが聞きたい、ささ、言うて聞かしゃ、言うて聞かしゃ。」
「あい、どうした訳じゃ知(し)らぬが、三つの年(とし)に父様(ととさん)や母様(かかさん)も、わしを祖母様(ばばさん)に預(あず)けて、どこへやら行(い)かしゃんしたげな。
それで私(わたし)は祖母様(ばばさん)の世話(せわ)になっていたけれど、どうぞ父様(ととさん)や母様(かかさん)に会いたい、顔(かお)が見たい。
それで方々(ほうぼう)と、尋(たず)ねて歩(ある)くのでござります。」
「む、してその親(おや)たちの名は何と言うぞいのう。」
「あい、父様(ととさん)の名は阿波の十郎兵衛(じゅうろべい)、母様(かかさん)はお弓と申(もう)します。」
と、聞いてびっくり。お弓は取り付き(とりつき)、
「ああ、これこれ、あの父様(ととさん)は十郎兵衛(じゅうろべい)、母様(かかさん)はお弓、三つの年に別(わか)れて、祖母様(ばばさん)に育(そだ)てられていたとは。」
疑(うたが)いもない我(わ)が娘(むすめ)と、見れば見る程(ほど)幼顔(おさながお)、見覚え(みおぼえ)のある額(ひたい)の黒子(ほくろ)。
「やれ、我(わ)が子か、なつかしや。」と、言わんとせしが、
『いや待(ま)てしばし。夫婦(ふうふ)は今(いま)も捕(と)らるる命(いのち)。
元(もと)より覚悟(かくご)の身(み)なれども、親子(おやこ)と言わばこの子にまで、どんな憂き目(うきめ)がかかろうやら。
それを思(おも)えば生半(なまなか)に、名乗り(なのり)だてして憂き目(うきめ)を見んより、名乗らでこのまま返(かえ)すのが、かえってこの子がためならん。』
と、心(こころ)を鎮(しず)め、よそよそしく。
「おうおう、それはまあまあ年端(としは)も行かぬにはるばるの処(ところ)を、よう尋ね(たずね)に出(で)さしゃったのう。
その親たちが聞いてなら、さぞ嬉(うれ)しゅうて嬉(うれ)しゅうて飛(と)び、さあ、飛び立つようにあろうが、ままならぬが世(よ)の憂(うき)ふし。
身にも命にも代(か)えて、可愛(かわい)い子を振(ふ)り捨(す)て、国を立退(たちの)く親御(おやご)の心、
よくよくの事(こと)であろう程(ほど)に、酷(むご)い親と、必(かなら)ず、必ず恨(うら)みぬが良(よ)いぞや。」
「いえいえ勿体(もったい)ない。何の恨(うら)みましょう。
恨みることはないけれど、小さい時(とき)別れたれば、父様(ととさん)や母様(かかさん)の顔も覚(おぼ)えず、
よその子供衆(こどもしゅう)が、母様(かかさん)に髪(かみ)結(ゆ)うてもろうたり、夜(よる)は抱(だ)かれて寝(ね)やしゃんすを見ると、
わしも母様(かかさん)があるなら、あのように髪(かみ)結(ゆ)うてもろうものと、羨(うらや)ましゅうござんす。
どうぞ早(はよ)う尋(たず)ねて会いたい。ひょっと会われまいかと思えば、それが悲(かな)しゅうござんす。」
と、泣(な)いじゃくりするいじらしさ。母(はは)は、心も消(き)え入(い)る思い。
「さても、さても、世の中に、親と成(な)り子と生まるる程(ほど)深(ふか)い縁(えん)はなけれども、親が死(し)んだり子が先立(さきだ)ったり、思うようにならぬが浮き世(うきよ)。
こなたもどれ程(ほど)尋(たず)ねても、顔も所(とろこ)も知らぬ親たち。尋(たず)ねても、会われぬ時は詮(せん)ないこと。
もう尋(たず)ねずと、国へ去(い)んだがよいわいのう。」
「いえいえ、恋(こい)しい父様(ととさん)や母様(かかさん)。たとえ、いつまでかかってなと、尋(たず)にょうと思うけれどなあ。
悲しい事は一人旅(ひとりたび)じゃてて、何処(どこ)の宿(やど)でも泊(と)めてはくれず、野(の)に寝(ね)たり、山に寝たり、人の軒(のき)の下に寝ては、た、た、叩(たた)かれたり。
怖(こわ)いことや悲しいことも、父様(ととさん)や母様(かかさん)と一緒にいたりゃ、こんな目にはあうまいものを。
ええ、何処(どこ)にどうしていやしゃんすぞ。会いたい事じゃ。会いたい。」
と、ワァーと泣(な)き出(だ)す娘(むすめ)より、見る母親(ははおや)はたまりかね、
「おお、道理(どおり)じゃ、可愛(かわ)いや、いじらしや。」
と、我(われ)を忘(わす)れて抱(いだ)き付(つ)き、前後(ぜんご)正体(しょうたい)なげきしが、・・・
若い頃から,三味線・浄瑠璃・人形遣いに携わっておられる文楽の先生方にうかがいました。
文楽は人に感動を与えるところが素晴らしいところです。
外国でも上演されたこともあり,一生懸命取り組んで拍手がもらえたときは,文楽をやってきて本当によかったと思いました。
また,文楽は周りの人と息を合わせることがとても難しいので,コミュニケーションをとって,人形の気持ちになることが大切です。
本郷の宝物を小中学生に教え,子どもたちががんばるとことで,私たちもまた元気になれます。伝統を多くの人に引き継いでほしい。
文楽をずっと続けてほしいと願っています。
先生方の話を聞くと,私たちは真桑の伝統である「真桑文楽」を引き継いで,大切にしていかなければいけないと感じました。
私たち6年生は,1年生から5年生のみなさんにも,ぜひ文楽を引き継いでほしいという思いを込めて,文楽を演じます。